COVER WATCH/今月のトップ画面の時計

WATCH FILE(ウォッチ ファイル)/Vol.106

5メートルの勝負

  牛に押した焼印が、“ブランド”の起源だったという。ブランドという言葉は、焼印を押すことを意味した“brander”という中世の北欧の古ノルド語から派生したものらしい。たしかに焼印を押したくなる気持ちもわかる。広い平原に多くの家の牛が放牧されていることを想像したとき、自分が所有する牛を他と差別化するため家紋などの焼印は実に都合がいい方法だ。この発想が時代とともに商標へと発展し、20世紀には印刷技術の革新にともない、グラフィックデザインの要素が加わりロゴタイプやロゴマークが確立していく。現代のブランド戦略においては、他社との差別化や信頼の証の意味からもロゴの存在は絶対的なものとなっている。

  時計ビジネスは、そのブランド戦略が最も重要視される典型ジャンルといえるだろう。ラ・ショー・ド・フォンあたりのアンティークショップを覗いてみると、文字盤にブランド名が記されていない古い懐中時計に出くわしたりするが、現在の腕時計においては、ロゴは不可欠だ。極限スケルトン仕様の文字盤であっても、怯むことなくロゴを表記し、それでも場所が確保できなければ風防ガラスの裏にレーザーで彫り込んでまでロゴを入れる。それほど腕時計にとってロゴは絶対的な存在なのである。

  と、思っていたから、衝撃だった。2015年にH.モーザーが発表した“コンセプト ウォッチ”だ。ロゴもインデックスもない究極のシンプルウォッチを見た瞬間、「この手があったか!」と思わず膝を打った。革新的な新機構を搭載した実験的モデルであることがコンセプト ウォッチの定番的な解釈だったところへの意表を突く快挙に対し、開発した当の本人であるH.モーザーのエドゥアルド・メイランCEOは「最高の生地で仕立てた名門ブランドの高級スーツの胸に大きなロゴマークはありませんからね」と皮肉っぽく笑う。彼らしい表現だ。

  もう20年以上前のことだが、イタリアで空前の時計ブームが巻き起こった当時、ミラノの老舗時計店のオーナーが語った「時計は5mが勝負だね」という言葉を思い出した。「この距離だとロゴはまったく読めない。だからこの距離でもそのデザインで瞬時にそのブランドだとわかるアイデンティティが必要なんだ。それがないと時計は売れない」と言い切った。

  H.モーザーにとってのアイデンティティが、美しいグラデーションのフュメダイアルであることは言うまでもない。例のスーツの話の後、メイラン氏はこう続けた。「フュメダイアルのモデルならば、すべてロゴを無くしてもいいと思っているくらいです」。その彼の超然とした意志を証明するかのように、H.モーザーは毎年、“コンセプト”の新作を発表し続けている。今年の新作のひとつがこのトゥールビヨンモデルだ。それにしても、このミニマルな究極ダイアルにシンプルなフライングトゥールビヨンがこれほど似合うとは想像できなかった。 

  メイラン氏の潔い志に促されるように、弊紙ウォッチ ファイルも実験してみたくなった。5m離れてもそれとわかるだろうか。(山田)

H.モーザーCEOのエドゥアルド・メイラン氏。ロゴを排した“コンセプト”など、時計業界に問題を提起する挑戦的モデルを次々と発表。その独自の哲学は高い評価を得ている。
ムーブメントの設計・開発やパーツ製造、組み立てなどは、すべてスイスのシャフハウゼンにあるH.モーザーのファクトリーで行われている。左の写真はエスケープメントの調整を行っているところ。H.モーザーは、ヒゲゼンマイやテンワをはじめ、エスケープメントのすべてのパーツを自社製造してる、スイスでも非常に稀有な存在だ。


エンデバー・トゥールビヨン コンセプト

ブランドロゴもインデックスもないミニマルなダイアルデザインで独自の哲学をアピールする“コンセプト”に新たに加わったフライングトゥールビヨン。中央から外周に向かって濃さを増すブルーのフュメダイアルが、H.モーザーのアイデンティティを強調。この究極のシンプルさにより、6時位置のフライングトゥールビヨンがあたかも宙に浮いているかのようなミステリアスな世界を演出している。世界限定20本。H.モーザーが新しく設計、開発、製造したダブル フラット ヘアスプリングを装備した自動巻きムーブメント「HMC 804」を搭載。3 日間パワーリザーブ。ホワイトゴールドケース。シースルーバック。ケース径 42㎜。手縫いバフ仕上げクーズーレザーストラップ。840万円(税抜)。問い合わせ。/イースト・ジャパン☎03-6274-6120


“エンデバー”コレクションは、ケースサイドからラグにかけて窪みを設けることでエレガントな印象をもたらしている。細部にまでこだわりが凝縮されたディテールの美しさも必見だ。

 


6時位置に搭載されたフライングトゥールビヨンは、修理しやすいように、交換可能なモジュール式になっており、ムーブメントから独立して組み立てや調整を行うことができる。